政治・文化・芸能・マスコミ御用達の街人と情報が行き交う赤坂・一ツ木通りの立地

赤坂は江戸城の外堀に位置し、風光明媚な溜池を挟んで発展してきました。明治時代以降、日比谷や霞が関が官庁街となり、永田町に国会議事堂が完成したことで、赤坂も政治と深く関わる地域となりました。特にTBSが一ツ木通りに移転してからは、映画、芸能、エンターテイメントなど多様な分野の情報や人々が集まる場所となりました。近年では、赤坂サカスやBizタワーの完成、大手広告代理店の本社移転により、テレビ、音楽、映画、出版、広告などのプロデューサー御用達の街として新たな歩みを始めています。

一ツ木通りのある赤坂は風光明媚な溜池をはさんで、江戸城外でした。赤坂が発展するのは、明治時代になってから。 日比谷、虎ノ門、霞が関あたりが官庁街となったこと、軍隊が赤坂に来たこと、永田町に国会議事堂が完成したことで深く政治と関わることになったからなのです。

歴史の転換期の舞台となる赤坂

幕末(1850年・嘉永6年)

近代(1900年・明治33年)

戦後復興と高度経済成長(1950年・昭和25年)

バブルとその崩壊(2000年・平成12年)

老舗が育まれた、これまでの100年

赤坂といえば、高級飲食店や花街のあるはなやかなイメージですが、江戸時代は大名屋敷や武家屋敷がほとんどで、赤坂に料亭が登場するのは明治時代も後半になってからです。赤坂の街の成り立ちや赤坂料亭の発祥について紹介しましょう。

■江戸時代:赤坂の始まり
赤坂の本格的な発展は、徳川家康の江戸入府から始まりました。江戸城造営時に紀州徳川家や大名・旗本が配置され、西の守りを固めました。赤坂見附門が設けられ、高台には大名屋敷、坂下には幕臣や庶民が住み、溜池は江戸の水源として利用されました。

■明治維新:武家屋敷から新たな街へ
維新後、多くの武家が国元へ帰り、町は荒廃。大名屋敷跡は軍事施設や政府高官の邸宅となり、依然として静かな町でした。長州藩毛利家跡は陸軍第1連隊(後の防衛庁、現ミッドタウン)、広島藩松平家跡は近衛第3連隊(現TBS・赤坂サカス)となりました。

■赤坂花柳界の発展
「溜池」はかつて風光明媚な場所で、周辺にはお茶屋ができ、花柳界が発展しました。明治以降、軍人や政財界人の利用で料亭が繁盛。戦後の高度成長期には黒塀の街に外車が並び、芸者が行き交う華やかな雰囲気となり、昭和45年頃には芸妓400人超の最盛期を迎えました。

■赤坂芸者から生まれたスター「萬龍」
赤坂の置屋「春本」の芸者「萬龍」は、雑誌「文芸倶楽部」で行われた美人コンテスト「全国百美人」の読者投票で1位になりました。当時は「酒は正宗、芸者は萬龍」と歌に歌われたほどの名声を博し、出征兵士の慰問用として、萬龍の「美人絵葉書集」が人気であったとか。

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